昭和四十五年二月三日 朝の御理解

X 御理解第九十九節 「無学で人が助けられぬということない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うというこがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる」


 「無学で人が助けられぬということがない」と言うことは、お金が無くても人が助けられぬということがない、ということにもなるでしょうねえ。これは、人が助けられるということは、様々な条件というものが揃わなければ助けられないということではないということです。助けるということは、また、助かるということは心に和が持てるということです。心に平和の和ですね。ですから、どういう中にあっても、和の心というものを持っておれば、人が助けられる。それと、ここでは真が無ければと言うておられます。真とは、私は和から発するもの、穏やかな心から生まれてくるもの、それが私は真だと思う。
 学者が身を食うということがあるが、学問はあっても難儀をしておると、財産があっても難儀をしておる者がある。いわば、財産が身を食うというふうに頂いてもいいと思うのです。その財産のために難儀をしておる。いや、その財産がかえって身を食うということがある。これは、財産というだけではありません、全てのこと。
 今日、私、この九十九節を頂くに当たって頂いたことは[非ず(あらず)]ということであった。それに非ず、人間が幸せになるとか、また、人が助けられるといったようなものは、それではない。
 私どもが思っておる、金がなからな助けられないとか、力がなからな助けられんとかじゃない。それには非ずと。だから、助ける、助けられるというものはね、各々の心の中にある育っていく和の心。和の心から生まれてくる、和の心から発散するもの。
 それが強烈になってくればくる程、人が助かることになる、勿論、自身も助かること。確かにそれではない、それでは非ずである、助かるということは、頭がようなからなければということではない。此の方は無学でも、皆おかげを受けておる。いかに教祖様が、和の心というものが、完璧なものでおありになったか。
 同時にそこから此の方は、「人が助かることが出来さえすれば」と、こうおっしゃっておられる。人が助かる、助けるという願いというものが、どの位強烈でおありになったかということが感じられます。人が助かりさえすればよい。そのことは有り難いことですよね、とりわけこれは、お道の取次の御用でもさせて頂こうとする者は、そう思うんです。
 人が助かりさえすればよいと、何もいらんと。それがいかに強烈であってもです、真がなければ、言うておることは素晴らしかっても、思うておることは、お役に立ちたいお役に立ちたいという念願、そこから、どうぞ、世のお役に立たせて下さいという祈りになってくる。それはけなげな思いであり、立派なんですけれど、その思いがね、和から生まれてくるもの、それをここでは真というておられます。
 和から生まれてくる親切、非常に世の中には、親切な人がありますよねえ。人のことも、よう世話が行届いて、親切にしなさると、というて親切にしとんなさるけれども、自他共に助かってはいない、という場合があるでしょう。
 だからね、和から生まれてくる親切でなからなならないのです。ただ、親切な心を持っておる、親切とは親が子を思う切なる心と言うけれども、親が子を思う切なる心というものは、親である限り、子供に対するそういう切なる心は持ってますよ。そういう切なる心で、そんなら、子供が助かっていくかというと、助からんでしょうが。
 親はこんなに思うておるのにと言うても助からんでしょうが。何故かと、和から生まれてないからなんです。真から生まれてないからです。だから、普通でいう親切とかいうだけでは駄目だと分かります。
 仲々、ある無学の、教師の資格をとられた先生が学院を出られてから、三代金光様に、「自分は無学で、学院を出ることは出たけれども、本当にこれで人が助けられるだろうか」と、心配のあまり金光様にお伺いをされ、お願いをされた。
 金光様がおっしゃておられることはね、「親切ひとつあれば人が助かります」とおっしゃった。金光様の信心をするからには、金光様の教師でも願うからには、やはり、いわゆる和賀心であります。和を求め、また、真を求めて稽古をしておる。その真から生まれてくる親切だということになります。
 ただ、親切好きとか、親切むかいというだけでは助からない事実が世の中には、たくさんありますねえ。親切好きな人がありますけれども、かえってその親切を仇で返すような、人の親切がよう受けられんと言って、かえって腹を立てている人もある位ですから。これはどうでも、ひとつ、親切好きじゃいかんのですよ。人の世話がよう行届くというだけでは、いかんのですよ。それが信心から生まれてくるもの、いわゆる真から生まれてくるもの、和の心から生まれてくるもの、それでなからなければ、助からん。
 此の方は無学でも、皆おかげを受けておる。人が助かることさえ出来れば、という一念がお強かっただけではなくて、いわゆるその和賀心という、和の心というものが、どの位素晴らしく、まあ、完璧なものでおありになったかということを感じます。
 ですから私どもがね、和の心というものを追求する、いわゆる信心である真心である。その和の心から生まれてくるもの。
 学者が身を食うということがある、人間の幸せは、学問に非ず、財産に非ず、知恵、力に非ず。真さえあれば、いわゆる和の心をもってです、どうぞ世のお役に立ちたい、立たせて下さいという祈りを持ってさえおればということになりましょう。世のお役に立つと、いわゆる円満具足の心とでも申しましょうか。ひとつも障らない、そういう心を目指しながら、そこから生まれてくるその心を使う、しかも、その心がです。
 昨日、三井教会の総代であります、岸先生がひょっこりやって参りました。今度、三月八日です。松影会で、未信者に対する講演会をやりたい。いわゆる求信者ですか。信心はない、けれども何とはなしに、信心に関心を持っておるという人達、ひと教会から十名ずつ位集めて、十幾つか教会がありますから、百何十人の人数を予定しているらしい。いわゆる未信者に対する。
 ですから、これは家庭の中でも、主人は信心するけれども、家内は信心しないといったような所が、そういう人達に呼びかけてくれと、こういうことなんです。大変良い企画だと思います。後で若先生と申しましたことですけれども、「本当に、只、松影会という、その事に協力するというのではなくてね、合楽教会の為に、そういう事が催されるんだとゆうような思いで協力させてもらわにゃいけん」と、言うて話したことです。
 講師に、薬院の松尾先生が来られます。もう信心も出来ておられますけれども、それこそ最高の学問を身につけておられるだけでなくて、お話が実に上手です。何時間聞いておっても、あかんような素晴らしいお話をなさいます。が、まだ信心の無い人達に対するお話をして下さるそうです。
 それでもまあ、お酒を一杯差し上げながら、いろいろと信心のよもやま話をさせて頂いたんですけれども、そういう例えば、未信者の方、まあだ信心がよく分からない人達に、一番分かってもらわなければならないことは、私が今年になって言い続けておる、和賀心時代ということを、お話ししました。
 そしたら、非常に感心しましてですねえ、「確かに先生、そうですよ」と。「本当にそういう事が分かればです、信心はしなければおられないという事になってくるのですから、これは大変な事なのですけれども、やはり、そこんところの開眼をさせることが大事ですね」と言うて話されました。
 だから、今年のここのスロ-ガンを若先生が話しておりました。今迄二十年間、椛目、合楽を通して、いろいろな信心の稽古をさせて頂いてきたが、今年初めて外へ向かっての働きかけといったようなものを、信心が、今年のここのスロ-ガンとなっておりますと。
 世のお役に立たせて下さいということ。そのことを、そういうきれいな言葉を使ってきておりますよね、教会でも、また、各々が・・・・。世のお役に立とうとか、いう意味での言葉を使ってきておりますけれども、ここの三角塔にも書いてありますように、世のお役に立たせて下さいという祈り、その祈りがなからなければならない。
 只、世のお役に立とう立とう、立ちたい立ちたい、というておったって駄目、その祈りを持つこと。立たして下さいということは、私自身が、神様に願っておることなんだ。「そうですねえ」と言うて、それを大変感心して聞いておられました。そこが合楽の違うところだというように、言うておられました。
 世のお役に立たして下さいという祈り、祈るところから、何が生まれてくるか。そんなら、どうあれば、そんな事になってくるかということになる。
 只、親切心だけで、世のお役に立ちたい立ちたいというのであっては駄目、真から出るものでなければ。それは、今いう真から出る心というのは、真に人が助かりさえすればという思いというのではなくて、そういう思いが和から出てくるもの、和賀心の和から出てくる親切、和から出てくる世のお役に立ちたいという願いでなからねば人が助かるということにはならない。
 学者が身を食う、財産が身を食う。
 昨日、新聞で第一面に大きく、島原で、ある酒屋さんが自分の家内子供を殺し、自分も自殺して、それから、それに関係しておった人達を鉄砲で射ち殺した。という大変な事件が起きています。私は、あらあら読ませて頂いたんですけれども、一億五千万円からの財産争いから、始まったそうですねえ。
 まさしくこれは、学が身を食う、財産が身を食うておる、そういう意味での事実が、これは、こんな大きなことは、めったにあることじゃないですけれども、随分、世の中には多いことだろうと思います。
 実際に肉体では殺し合わなくても、心で殺し合っておる。心で憎しみ合っておる。それが只、財産があるばかり。 だからね、やはり、学が身を食うであり、財産が身を食うとは、そんなことだと思うのですよ。
 してみるとですねえ、私共は確かに幸せの条件の一つに、お金もなからななりません、物もなからななりません。衣食住が足って、礼節を知るといったような、これはまあ、言葉がありますけれども、あれは嘘です。衣食住があったら、かえって、本当言うたら、我がままになる。ただ、形式的な礼節が生まれてくるだけであって、和から生まれてくるものでは決してない。道徳的なこととは、そんなに違うんですよ。信心とは・・・・。
 礼節をしらん、かえって、そういうような衣食住が足って、かえってそれが身を食う結果になってしまう、殺し合うといったことはないにしましても、心で殺し合う。傷つけ合う、そのためにかえって、難儀をする。
 ですから、どうでも私共がね、そういう衣食住を、これは人間の幸せの条件ではあるのですから。けれどもね、そういうものを、私共がまだ持ってないのです。今、合楽に通うておる人達はないのです、財産もない、大したものを持ってない。
 そういう時にです、信心が分かったということは、大変な有り難いことだと、ひとつ分からにゃいかん。そして信心がです、例えば今日申しますように本当に和の心を求めて。その和の中から生まれてくる親切、人が助かる程しのもの、そこに、自分が助かっていく。その和の心にまた、限りない、いわば、お恵みを受けることにも出来るおかげ。そういう、ひとつ、和の心を基盤としたもの、基礎としたもの。そこに建てられるところの家であり、蔵であり、財産でなからなければ、いかに、それが、むしろ、罪悪であるかということが分かります。
 おじいさんという方が昨年、七十一で亡くなられたそうです。だから、それまでは、ゆるがなかった。ところが、亡くなられた途端にそういうことになる。いかにです、そのおじいさんが、言うならばです、我情我欲というと、一寸、当てはまらんかもしれませんけれども、和というものを基盤にしてからの、建てられた家、蔵、財産じゃなかったということになる。
 せっせと働いた、利ずめよう働いて、一億五千万円もの財産を作られた。そして、それを、孫に譲った。
 ところがそれには、大変なばい菌がついておったようなもの。その財産がいわゆる身を食うことになった。自分かただけならいいけど、親戚中まで、そういうことになった、子供のために、家も建ててやっとかにゃあ、屋敷も広うしとかにゃならん、山も買うといてやらにゃならん。
 子供のために美田を残すという諺がありますが、それは残さなきゃならない、残してやっとかにゃならない。けれどもね、ばい菌のついとらんものを残してやっとかにゃ、自分の我情我欲といったようなです、いわゆる、ばい菌がついておるようなものを残したって駄目。それを言うならば、神様のおかげで出来たもの、いや、本当言うたら、この全ては神様の御ものであるという、いわば頂き方が出来る。
 そこに頂けるところの家、蔵、財産でなからな駄目。その辺のところが、こんなに簡単なところがどうして皆んなには分からんだろうかと。一生懸命、それこそ親が苦労する、子が楽をする、孫が乞食をする、と言われておるような、もう、こんなにも間違いのないことをどうして、そんなに分からんだろうかと思う。そうして、せっせせっせと信心なんかは外に、心の清まりの事なんかは考えもせずに、一生懸命働いて、我情我欲という、ばい菌の残ったのを、そのまま子供に伝えるから、それを食べた。いわゆる、ばい菌のついたぼたもちを食べさせるようなもの。こげな不親切なことはない。
 だから、親切というようなことでも、和から生まれる親切でなからにゃ、いかにいけないかということが分かります。
 そして、昔の人はです、子供のために美田を残すなと言うけれども、そうじゃあない。そういう和に立却したところの家、蔵、財産をです。やはり、残していくというおかげを、いわば、家繁盛、子孫繁盛の元になるような元を残しておかにゃいけん。
 それにはね、私共が、本気で真を求める、真を追求していく、それを今日私は、和というふうに申しました。
 御神訓の、信心の心得の第一番目に「信心は、家内に不和の無きが元なり」とあります。だからね、これは、信心がなくてです、円満にいっておるといったようなものは、決して、今日私が言う和にはならないのです。
 今日、私が申しますような、和を求めて、信心によって生まれてくる、その和、その和が家庭円満の元になっておる和でなければなりません。信心は家庭に不和の無きが元なりと、信心によって不和の無い家庭が生まれる、そこから家、蔵、財産が頂けれる、そういうものであるならばです。それが、子供にも、孫にも、子々孫々いわゆる家繁盛、子孫繁盛の土台になる訳です、それが基礎なんです。
 けれどもですね、なる程衣食住が足って、礼節を知るといったような意味に於いてのです、金があるからこっとりとも言わん、物があるからこっとりとも言わん、と言うような意味に於いての円満に見えておるのは、それは本当の円満ではない。
 例えば、そういうのなら、衣食住が欠けたら、もうそこに争いが起こる。そういうような事のものじゃない。
 だから、今度はこの反対に、これは、それで財産が出来たとする、なる程礼節が形式的に出来るであろうけれども、それが本当なものじゃない証拠に、その家、蔵、財産の為に血で血を洗うような結果が生まれてくる。恐ろしい事です。
 しかもこのようにです、私共の周囲、周辺には、そういう事実がたくさんある事から、例えば、自分の村内の事だけでも考えて御覧なさい。同じです。いくらもあります。もう厳密に言うたら、どこにでもあります。
 信心を抜きにして、なる程円満にいきござる。物もある。金もある。けれども、欠けてくると、もう夫婦喧嘩が起こったり、親子喧嘩が起こったりする。そんなら、それかと言うて財産が出来た。いかにも礼節を知っとるごたるけれども、いよいよ、ぎりぎり、その財産を、さあ誰が貰うかという事になってくると、血で血を洗うような、礼節を知る段じゃなか。そうでしょうが。ですからね、和の心に立脚した家庭、その和というのは、いわゆる信心から生まれてくる和。
 今日、私、普通で言う親切、親が子を思う切なる心というそれは誰しも持っておる。親が子を思わん者はない。けれども、その親切では、子供すら助からんじゃないか、子供すら言う事を聞かんじゃないか。
 ですから、同じ親切でも、「親切ひとつあれば助かります」とおっしゃるのは、信心というそれを土台にして生まれてくる親切であります。
 いわゆる、和というもの、和の心というものを、土台にしたところの、そこから生まれてくる親切であります。子供のことを思わん者はありますまい。子孫のことを繁盛願わん者はありますまい。それなら本気でです、まず私の家庭にと言いたいけれど、私の心にです、まず本気で和の心を求めなければならない。その和の心こそ、私は真だと、こう思う。
 真が無ければ人は助からん。今日は、私は、[非ず]ということを頂いてです、これを、人間の幸せは財産に非ず、学問に非ず、知恵、力に非ずと、私は感じた。
 ですからね、学問さえさせればとか、技術さえ身につけさせてやっておけば、それがいかにも親の親切のように思うておりますけれども、本当にこれは嘘ですから、間違いですから。
 まず、自分自身が与えられるだけの信心をです、まず本気で頂いて、その信心から生まれてくる和の心。その和の心から、願うところの子孫の幸せであり、または世のお役に立たせて頂くに致しましても、そこから生まれてくる、世のお役に立たせて下さいというものでなからなければならない。でなかったら、かえって親切が仇をなすような結果になる。
 世にいう親切好きの人の場合なんか、いつもそれ。だから、和の心から、信心から生まれてくる親切、そこにです、本当の意味においての自他共に助かる。
 今度、三月八日に未信心の方達に対する講演、なる程企画は素晴らしい、と私は思うです。けれどもね、その教会教会にそういう全然信心に関心を持たない人、全然反対しておる人は行けと言うても行きますまいけれども、何とはなしに関心を持っておる人、一遍金光教の話を聞いてみたいと思う人達に、それをおすすめすることは大変有り難い、そして、話を聞いてもらうことは、いよいよ有り難い。
 昨日、そのことについて、若先生が言うておりました。そういう、例えば、素晴らしい計画ですけれども、それが今度は反対にです、反対になる場合もあるから、そこんところを、おかげ頂かにゃいけません。
 例えば、「信心の無い人達が集まります。そうすると信心のある人達で、それを、お世話を致します。信心しよったっちゃ、あの位のことかということになってきたら、もうなおさら、信心がいやになるということもありかねないから、信心のある者自体が、本当に信心になって、そのことがなされなければなりませんね」と、若先生が申しておりましたが、「ほんなこてそうですね」と、岸先生が言うておりました。
 本当、そうですもんね、折角例えば、そんなら、よくあることです。無理に教会に導いて来るのです。そうすると、そんなら教会で、その信者にも、あるまじきとゆうようなことがですね。それを、見たり聞いたりすると、金光様の教会に参ったばってんあげなことじゃでけんと、もういっちょんお参りせんごとなる、かえって。
 ですから、いかに、そのような素晴らしい企画があったに致しましても、その発端がね、和の心から生まれてくるもの、真から生まれてくるものでなからなければならないことが分かります。
 学が身を食うだけではない、財産が身を食う。そうゆう学問をね、只させさえすればよい。そうゆう財産を作りさえすれば良いとゆう考え方をね、本気でひとつ一掃して、そして真の信心を頂いて、その真の信心から生まれてくる和を立脚点としてです、それを基盤として、そこに打ち立てられる家、倉、財産でなからなければいけないことを、ひとつ本気で分からなきゃいけないと思いますね。
どうぞ。